菜香亭、ピリヴィ、レグー Pillivuyt and Regout of Saikotei
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菜香亭、ピリヴィ、レグー Pillivuyt and Regout of Saikotei 2
菜香亭、ピリヴィ、レグー Pillivuyt and Regout of Saikotei 1
菜香亭、仏蘭西食器ピリヴィ、阿蘭陀焼ペトルス・レグー
Pillivuyt and Petrus Regout of Saikotei, Japan
齊藤泰嘉 SAITO Yasuyoshi
はじめに
菜香亭(さいこうてい)は、現在の山口県山口市八坂神社境内で明治初期から平成期まで営業していた老舗の料亭である。その命名は、明治の元勲、井上馨による。1996・平成8年6月1日の休業閉店後、現在の場所に移築され、山口市の管理する市民交流施設にして観光の拠点、山口市菜香亭として開館した(注1)(図1)。
図1 山口市菜香亭 図2 菜香亭で使用されたピリヴィ
明治期の菜香亭では西洋料理が供され、その際にフランス製の洋食器ピリヴィが使用された(図2)。ピリヴィは、フランスを代表する陶磁器製造会社の一つであり、その創業は1818年のことである。その純白の磁器は、今も製造され、フランス国内はもとより、アメリカや英国など世界の食卓で愛されている。在日フランス大使館の広報記事によれば、シテ・ド・ラ・セラミック(公施設法人陶芸都市、旧セーヴル製陶所)の2012年の売上げ高は220万ユーロであり、ピリヴィの同年の売上高はこれを遥かに超えて1,500万ユーロに達したという(注2)。
しかしながら、19世紀から20世紀初頭にかけて製造されたピリヴィの食器は、日本ではその存在がほとんど知られておらず、これまで筆者が確認しえたのは、皇室コレクション(20世紀初頭製造)と菜香亭コレクション(19世紀製造)のみである。本稿は、菜香亭の歴史を振り返り、ピリヴィが菜香亭においてどのような経緯で使用されるようになったかを明らかにしようとするものである。
1.菜香亭120年5代の主人
菜香亭の歴史は、明治の初めにさかのぼる。萩の出身である齊藤幸兵衛(本名齊藤甲兵衛)が、1877(明治10)年頃に現在の山口市、八坂神社境内で料亭を開業する。やがて、その料亭は、井上馨によって「菜香亭」と命名され、以後、この場所は、県都山口の迎賓館として明治の伊藤博文、昭和の佐藤栄作など著名な政財界人に利用される。百畳を超える大広間は、美酒に酔い、夢を語る宴の場として多くの人々に愛されるが、1996・平成8年に営業をやめ、約120年の長い歴史の幕を閉じる。その5名の歴代主人は以下のとおりである(注3)。
初代主人=齊藤幸兵衛(戸籍上は甲兵衛)(図3)。1842・天保13年11月16日生—1891・明治24年7月13日没。藩の膳部職(ぜんぶしき、台所方)をつとめる。明治初年、藩主毛利敬親に伴い、山口に移住。料亭(後の菜香亭)を開業。妻ムメ(戸籍上はウメ、1844弘化元年萩生まれ)。子どもは、長男甲兵衛(2代目主人)、2男長蔵、3男徳蔵、4男泰一(3代目主人)、長女ユキ、2女キク。幸兵衛の弟、千熊幸郷(ちぐまゆきさと)は、長州藩諸隊「膺懲(ようちょう)隊」の一員となり、1864(元治元)年の馬関戦争にて戦傷死している。
図3 初代主人齊藤幸兵衛
2代目主人=齊藤甲兵衛(戸籍上は靏槌、甲兵衛)1865(慶応元)年1月24日生—1899(明治32)年10月6日没(図4)。初代主人幸兵衛の長男。幼名靏槌。妻はモム。子どもは、長男吉之助(4代目主人)、2男弥之助、長女コウ、2女フキ、3女寿子。明治20年代後半期に菜香亭主人をつとめたと思われる。
図4 2代目主人齊藤甲兵衛
3代目主人=齊藤幸兵衛(戸籍上は泰一たいいち)
1873・明治6年8月8日萩生-1970・昭和45年9月26日千葉県四街道市没。初代主人幸兵衛の4男。明治20年頃、萩中学校に学ぶ。明治20年代前半頃に上京。井上馨の書生をつとめながら上野精養軒で西洋料理の修業をする。山口に帰郷後、菜香亭で西洋料理を出す。フランス、ピリヴィ社製の洋食器を用いる。兄である3男徳蔵が早世したため、その妻ユキを娶る。子どもは、基一(もといち、兄徳蔵の長男)、ウメ、トミ、ハナ、栄一、智恵、正一、秀一、節子、惇。養子マツ。兄甲兵衛が他界したとき、その長男吉之助が幼少であったため、家業を継ぐ。明治30年代頃から大正期頃にかけて菜香亭主人をつとめたと思われる。
図5 3代目主人=齊藤幸兵衛
4代目主人=齊藤幸兵衛(戸籍上は吉之助、甲兵衛)
1894(明治27)年5月24日生-1938(昭和13年)2月11日没。2代目主人甲兵衛の長男。妻はアキ。子どもは、長女清子(5代目主人)、2女達子。東京三越本店装飾部に勤務。昭和初期頃に菜香亭主人をつとめたと思われる。
図6 4代目主人齊藤幸兵衛
5代目主人=齊藤清子(きよこ)1917(大正6)年11月19日生-2011(平成23)年5月31日没。4代目主人吉之助の長女。東京家政学院に学ぶ。父の跡を継ぎ、1996(平成8)年の菜香亭休業閉店まで主人をつとめる。おごうさんと呼ばれた。
図7 5代目主人齊藤清子
3.3代目主人齊藤幸兵衛(泰一)とピリヴィ
齊藤泰一(たいいち)は、政治家(あるいは建築家)を志し、井上馨の書生として東京に暮らした。海外留学を望んでいたが、料理の腕が良く、井上馨に勧められ、上野精養軒で西洋料理の修業をした。明治20年代に山口に戻る。当時、山口でも洋食の愛好家が増え、菜香亭で西洋料理を出した。1897・明治30年、フランスのピリヴィ社製洋食器を買い求め、使用した(注4)(図8)。
図8 齊藤泰一自筆の覚え書
すぐ上の兄徳蔵(1895・明治28年帝国大学化学科卒、理学士。井上馨ら長州ファイブがロンドンで指導をアレクサンダー・ウィリアムソン教授に化学を学んだ桜井錠二教授に学んだと思われる)が早世したため、その妻ユキを娶る。長兄である2代目主人甲兵衛(1899・明治32年没)の跡を継ぐ。明治から大正にかけて3代目主人として菜香亭を発展させる。酒は、広島の加茂鶴を出したという。菜香亭を舞台にした久米正雄の小説『天と地と』(1927・昭和2年文芸春秋社刊)の中に「清光亭主人彌一」の名で登場する。1914・大正3年山口町会議員に当選し、1929・昭和4年、山口市会議員となる。ユキとの間に4男5女をもうけた。4代目主人吉之助(きちのすけ)は甥にあたり、5代目主人清子(きよこ)は、4代目の娘である。
1953・昭和28年、ユキが他界する。ユキを介護していた息子惇(あつし、野田学園と大殿中学校で教員、日本画家)の一家が1955・昭和30年、山口市から千葉県佐倉市に移り住む。以後、泰一も山口を離れ、東京に住む息子栄一(えいいち)、千葉県に住む息子秀一(ひでいち)、惇(あつし)の家を回りながら暮らす。1970・昭和45年9月26日千葉県四街道市の惇宅で他界した。山口市真福寺に墓がある。
4.料亭菜香亭の洋食(建物・下張・メニュー)について
菜香亭の洋食の歴史は、大きく三つの時期に分けることができる。第1の時期は、草創期であり、明治20年代前半のことである。第2の時期は、発展期であり、明治20年代後半のことである。第3の時期は、隆盛期であり、明治30年代から大正期頃までのことである。
第1の草創期は、菜香亭が洋食を初めて出すことにした時期で、1886・明治19年10月22日付の防長新聞には、山口の「紳士方」が「洋食会」という会を設け、「クック」(料理人)を雇い、器具を買い入れ、「祇園社内齋幸方」(菜香亭)で西洋料理を出してもらうことに決めたようだと報じられている。その翌年の1887・明治20年7月3日の防長新聞によれば、「祇園菜香亭の洋食堂」が落成し、1日より開業式を行ったという。第2の発展期は、上野精養軒で西洋料理(フランス料理)を修業していた齊藤泰一(後に3代目主人)が帰郷し、その腕を発揮し始める頃のことである。この頃、隈本という人に出した西洋料理のメニューが、後に襖の下張となっていたが再発見され、現在は、山口市菜香亭で保存されている。
この下張には、「洋食弐皿」、「ハトシチュー」、「ビフテキ」、「サラド」、「ソップ」などと書かれている。このメニューの筆跡は、齊藤泰一のものと思われる。山口市菜香亭職員の藤村成生氏によれば、当時、山口高等中学校では、隈本有尚(くまもと・ありたか、元福岡県立英語専修修猷館初代館長)という人物が1891・明治24年から明治27年まで教頭をつとめており、もし、これが同一人物であれば、このメニューは、明治20年代半ばに書かれたことになる。明治26年、菜香亭は洋食堂を改築し、明治29年には井上馨の還暦祝賀会が菜香亭で開かれている。
第3の隆盛期は、齊藤泰一がフランス、ピリヴィ社製の洋食器を購入した1897・明治30年以降のことである。1899・明治32年、2代目主人甲兵衛が他界する。泰一は、その跡を継ぎ、3代目主人となる。明治32年には、伊藤博文、西郷従道が菜香亭で相次いで菜香亭で宴会を催している。1903・明治36年には、子爵渡邊昇(わたなべ・のぼり、大仏次郎の鞍馬天狗のモデルとされることのある人物)が菜香亭を訪れ、「丹心」と揮毫している。こうした各界の名士に対して泰一は、フレンチの名門上野精養軒仕込みの腕をふるったのだ。
5.ピリヴィとペトルス・レグー
3代目菜香亭主人齊藤幸兵衛(泰一)が菜香亭で使用していたディナー皿やテュリーン(深鉢)などの洋食器は、フランスのピリヴィ社製のものとオランダのペトルス・レグー社製のものがある(図9)
図9 ペトルス・レグー社製皿
ペトルス・レグー社は、オランダの製陶会社。幕末から明治にかけて日本に銅版転写陶器(プリントウェア、阿蘭陀焼おらんだやき)を輸出した。泰一の購入したレグーの皿と同じ模様の皿(寸法が異なる)が、神戸市立博物館に所蔵されている(注5)。上野精養軒でフランス料理を修業した泰一は、ピリヴィの洋食器を1897・明治30年に購入しているが、これらの洋食器で現存している数は、ピリヴィが全19件60点、レグーが全1件11点、合計全20件71点である。
ピリヴィ(PILLIVUYT)は、フランスを代表する陶磁器製造会社の一つである。1818年創業。本社は、フランス中央部の古都ブールジュ(パリの南約200㎞)の近郊ムアン=シュル=イエーヴルMEHUN=SUR=YEVREにある。
1844年、シャルル・ピリヴィCharles Pillivuyt(2代目)が家業を受け継ぐ。1867年(パリ)、1878年(パリ)などの万国博覧会で受賞を重ねる。ピリヴィのデザインは、フランスらしい華麗な文様による皿や壺などが多い。
だが、泰一の購入したピリヴィは、純白を基調として金の帯を配した幾何学的なデザインであり、古典的品格を有している。おそらく各界の名士に出す食器には格調の高さが必要だと泰一は考えて選んだのではないか。泰一の購入したピリヴィの器底には、ピリヴィの商標が付けられており、そこには、2代目シャルル・ピリヴィの名や、1867年と1878年の万国博覧会で金牌を受賞したことが記されている(図10)。
図10 ピリヴィの商標
また、泰一は、自分がピリヴィの洋食器を1897(明治30)年に購入したことを自筆覚え書で残しているので、これらのピリヴィの製造年は、1878(明治11)年以降、1897(明治30)年以前のことになる。
菜香亭以外でもピリヴィは日本で使われたのであろうか。「御即位十周年記念特別展 第六回展 饗宴-近代のテーブル・アート」展(宮内庁三の丸尚蔵館、2000・平成12年)図録には、ピリヴィの《菊花文カップ、ソーサー》(20世紀初頭)が掲載されている。
おわりに
2014・平成26年、山口市菜香亭は、移築開館10周年を迎え、それを記念した展覧会を10月3日(金)から11月30日(日)まで開催した。「菜香亭の洋食器ピリヴィ里帰り展~三代目齊藤幸兵衛コレクション」と題した展覧会には、フランス、ピリヴィ社製食器(12件21点)とオランダ、社製食器(1件1点)、合計13件21点が展示された。(図11)
図9「菜香亭の洋食器ピリヴィ里帰り展~三代目齊藤幸兵衛コレクション」会場風景
約60年前に山口を離れ、他の場所で秘蔵され続けてきたこれらの洋食器の公開は約60年ぶりのことであった。この企画展を開催することにより、菜香亭3代目主人齊藤幸兵衛(泰一)が購入し、菜香亭で自ら使用した洋食器の芸術性や歴史的価値が再認識されることになった。
本稿では、ピリヴィが菜香亭で使われた経緯に関し、いくらかは明らかにすることができた。だが、齊藤幸兵衛(泰一)は、フランス洋食器の中でなぜピリヴィを選んだのか、どのような経路で購入したのかは不明のままである。これらの疑問については、今後の解題としたい。
注1 料亭としての菜香亭の住所は山口市上竪小路103。現在の山口市菜香亭の住所は山口市天花1-2-7。特定非営利活動法人歴史の町山口を甦らせる会(理事長福田礼輔)が指定管理者となって運営に当たっている。菜香亭の歴史や現在の活動については以下の文献に詳しく記載されている。『山口市菜香亭図録』、特定非営利活動法人歴史の町山口を甦らせる会編集・発行、2012年第3版。
注2 ピリヴィについては、以下の展覧会図録を参照した。UNE VIE DE PORCELAINE LES PORCELAINIERS ET LEUR TRAVAIL EN BERRY AUX 19e et 20e SIECLES:PILLIVUY, EDITIONS ACL-CROCUS MUSEE DU BERRY, BOURGES-MUSEE SAINTE-CROIX, POITIERS, 1989.在日フランス大使館ホームページ記事は2015年3月23日閲覧。http://www.ambafrance-jp.org/article6844
注3 5名の生没年や家族の名は、齊藤家戸籍に基づく。
注4 ピリヴィ保管用木箱に貼付されていた紙に残された齊藤泰一直筆の覚え書(図5)による。「金ブチノ佛蘭西洋食器ハ明治三十年購求セシモノ也」とあり、ピリヴィの購入年代が分かる。さらに「山口縣廳」、「洋食奨勵」、「申しこと」と読めるが、山口県庁が洋食を奨励したのか、あるいは逆に泰一が山口県庁に洋食奨励を申し出たのかは不明である。
注5 『阿蘭陀焼-ORANDA-YAKI 憧れのプリントウエア―海を渡ったヨーロッパ陶磁器』、展覧会図録、愛知県陶磁資料館発行、2011年、55頁。ペトルス・レグー社については以下の単行本(オランダ語)がある。PETRUS REGOUT 1801-1878, N.V.CENTRALE DRUKKERIJ-NIJMEGEN.